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ウェスタリス――いつか見る、夢。



 ぱち、とひときわ大きく火がはぜる音で、アキヒトの意識は眠りの女神の腕からサルベージされた。真っ先に彼は柔らかな毛布の程良い重たさを自分の肩に感じ、まぶたの向こう側でいとおしげな眼差しで自分を見つめる女性の存在を確信する。
 ざざ、と薪が燃え崩れる音がする。女性の気配が動く。間もなく、からんと音がして、暖炉に新たな薪が加えられた。
 アキヒトは体を起こそうと身じろぎをする。
「待って」
 背中にそっと添えられた手のぬくもりを毛布ごしに感じ、身体の動きを止める。
「目はまだ開けないで。準備ができていないのよ」
 ティーポットに勢い良く湯を注ぐ……そんな音が彼女の言葉に続いた。彼女はいつも紅茶をいれる所を見せない。それはきっとアキヒトを繋ぎとめておくためなのだ。

「あなたのために、毎日おいしい紅茶をいれさせてほしいの」

 それが彼女からアキヒトへのプロポーズの言葉だった。だから、おいしい紅茶をいれるコツを秘密にしようと、見せてくれない。
 火が、はぜた。彼女が再び暖炉に薪をくべる。それはもう5年も繰り返された作業であり、アキヒトたちの日課であり、仕事であり、自ら課した使命だった。
 明日もあさっても、きっと地球がある限り、彼らの命が続く限り繰り返されることだろう。
「僕たちは地球で何番目に暖炉に薪をくべた人間なんだろう」
 独り言めいた思いつきのつぶやきだった。
「さあね。私たち以前に地球で暖炉に薪をくべた人間なんて星の数ほどいるでしょうし」
 期待しない答えがあったので、アキヒトは意地の悪いことを言ってみたくなっていた。
「そんな答えじゃ、科学者とは言えないな」
「アキヒトの問いかけが、そもそも科学者らしくないのよ。我々が何故、暖炉に薪をくべるのかという命題だったら、極めて科学的に説明できるけど」
 彼女の方が一枚上手だ。アキヒトは声を出さずに肩で笑った。
「地球においての適正な炭素循環を促すため、だろう。君の専門分野じゃないか」
「もう少し詩的に表現させてもらえるとすれば、私たちのやっていることは罪滅ぼしね。……石油や石炭や、そんな地殻から掘り出した炭素を何も考えずに無邪気に大気に放出していた時代の」
「いやいや。炭素を木材として固定化し、月都市に送り、売りさばく。その一面だけを見ていれば、確かに生態系が破壊された地球を研究という名目で喰い物にする『地球浄化ビジネス』だと言えるのかもな」
 自分たちの研究を頭から否定した、月都市の快適環境で生活している学会や政府のお歴々をアキヒトは思い出していた。そんな逆境に置かれても、小規模ながら実験施設を地球上に建設できたのは、今、傍らにいる彼女と、その他の何人かの数少ない理解者が、それぞれのフィールドで奔走してくれたからだ。
「木材を月都市に輸送するのは、あらゆる環境側面での膨大な地球復元シミュレーションから導き出された『現時点で考えられうる最良の一手』なのよ。効率的に炭素を固定化するために森林に間伐という人の手を加える。その過程において、間引きされた草木を暖炉にくべるという、最大限効率的かつ最小限の環境負荷の手法で炭素を大気に戻しながらね。この炭素は再吸収されて植物になり、月に送られる」
 彼女が語るのは、それはそれは気の遠くなるような、しかし着実で緩やかな革命だった。
 彼女がいれた紅茶の葉が開き、香りがたってきた。目を閉じたままで聞いていると幻想的な物語を聞いているような感覚になってくる。
 そんな感覚の渦中で、アキヒトの脳がある真実を手繰り寄せた。
 それは、その革命の中に自分たちも含まれているのだということ。
「僕たちの身体を通って吐き出した息も、僕たち自身の身体を構成している元素も、いつかは月に送られるんだな。何千人何万人か後の、薪をくべる人間たちの手によって」
「そうね」
 アキヒトの背中に彼女の頬が寄せられる。
「だから、心配しないでね。いつか私がいなくなったとしても。私は形を変えて、アキヒトの傍にいるから」
「縁起でもない。それじゃまるで今生の別れみたいじゃないか。なあ、シズル」

 後頭部に軽い衝撃があった。まぶたを開けると、そこには拳を振り上げて不満げに口をとがらせる少女がひとり。
「私が生まれた時、父さんと母さんが空を見上げると、そこにきれいな満月が浮かんでいた……だからミチルって名前を娘につけたんでしょ。もう忘れたわけ?」
 握った拳を開くと、少女はアキヒトの背中を手のひらでたたきながら言った。
「しっかりしてよ、父さん」
 衝撃でつんのめった体制を立て直しながら、アキヒトは思う。
 そう、シズルはもう10年も前からこの世にはいないのだ。シズルとの思い出は、つい昨日のことのように蘇ってくるのに。
「ずいぶん昔の夢を見ていた。まだおまえが生まれる前の頃の。……今思うと、案外、母さんは自分の命がどれくらい残されていたかを知っていたのかもな」
 まだ寝ぼけている父に、ミチルはやれやれ、と言いたげな視線を送る。父はガチガチの地球環境科学者の割には時々、論理的でないことを口にする。
 父と母の学問的な業績を、同じ道に進んだミチルはよく知っていた。科学者としての父を考えると、こういう何気ない一言に相当なギャップを感じる。
 たぶん、亡き母もそうだったのだろう。でなければ、学会と政府の猛烈な否定を論理的政治的に納得させて、人類に捨てられた地球で地球復元のために自ら提唱する学説を実践しようなどという情熱は生まれてこないだろうから。
「これ、飲んでみてよ」
 ミチルはアキヒトの前に、ティーカップを置いた。そこには淡いベージュ色のミルクティーがそそがれていた。
 ティーカップを持ち上げると、アキヒトは娘の入れたミルクティーを一口、含む。
「懐かしい味だ。10年ぶりだよ」
 ミチルは年相応の華やいだ笑顔を浮かべた。
「そうでしょう。母さんの研究日誌を整理していたら、欄外に走り書きでこの紅茶のレシピがあったのよ」
 アキヒトはもう一口、娘の手で再現された妻の味を味わった。
「薪のはぜる音と、この紅茶の香りがあんな夢を見させたんだ」
 シズルを形作っていた炭素はどこにいったのだろう。もしかすると、今、暖炉で燃えている薪の中の、大気に還されようとしている炭素こそがシズルだったのかもしれない。

 炭素には生物だった時の想いも乗せられているのだろうか。

 科学者らしくない、とさすがにアキヒトは頭を降った。
 地球の復元までどのくらいかかるかは分からない。そんな気の遠くなるような時間の作業の途中で、ひととき安らぎを感じられる出来事があれば、また続けていける。
 思考にとらわれた父を現実世界にサルベージするため、ミチルは再び、紅茶をいれる動作を始めた。




Reference...
ウェスタリス(Vestalis)
 ローマの竈の女神ウェスタ(Vesta:ギリシャ神話ではオリンポス十二神の一人ヘスティアにあたる)に仕える巫女。6〜10才に選抜され、30年間勤める。社会的地位は非常に高かったが巫女の資格を失った際の処罰も重かった。特に純潔を失った場合は生き埋めにされた。


作者:広河陽氏
作者サイト:ふみかばんのほーむ【別窓】

- この小説の著作権は広河陽氏に帰属します -

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