恐ひ
「つまり、早い話がそのおっさんは金持ちでもの好き、おまけに年寄り。死ぬ前に『今までに一度も体験したことがない』ごっつうきついことを体験してみたい、ちゅうご依頼なわけやな」
「はあ。いうたらそないなもんやね。しかしまあ、このおっさんの場合、こらなんぎやで。戦争にもいっとるし、たいていのことは経験済みやがな」
「どれ。深層心理チャートみせてみてみい。わ。こらほんまごついわ。わてら、こけたら指いっっぽんで済まされんのとちゃうか。す巻きになってネオ淀川に浮かぶとか」
「ぶるぶる。脅さんとおくれやす」
「茶化さんといて」
「混ぜっかえさんといて」
「なんや。そっち方面のお人かいな」
「まあ、いうたらなんやね。酒も女も食い物もクスリも暴力も、一通り以上にはどっぷりとくぐって来たはるお方やね」
「っちゅうか、ここまでどっぷり漬かりっぱなしな方も珍しいわな」
「しかも、まだビンビンの現役やし」
「ますます指一本で済まされんようになってきた」
「脅さんとおくれやす」
「茶化さんといて」
「混ぜっかえさんといて」
「念のために確認させてもらうけど、新鮮な経験でありさえすれば、普通なら苦痛の筈の経験でもええ、いう話なんやな」
「せや。なんでもええから、ほかでは経験でけへんごっつう新しいことをご所望や」
「飢え、いうのはどないなもんでっしゃろ?」
「あかんあかん。戦時中、軌道上の揚陸ポッドに手違いで十日間ほど閉じ込められたことがおありや」
「ほんまや。あの狭いホッドの中で飲まず食わずしゃべらずの十日間……そんで少しも気ィ狂わへんのか。うわあ。えっらいタフなおっさんやなあ」
「さすがに厳しい業界で何十年も第一線で体張ってはるだけのことはあるなあ」
「とゆうことは、閉所と孤独、孤立の線も消え、やな」
「っちゅうか、ここまでも大物やったら現実でもほとんどやり放題やないけ。いまさらわしら疑験屋になにさらせちゅうねん。わしら、貧乏人に夢売るんが商売やったんちゃうの」
「せやかて、金持ちやろうがやーさんやろうが、お客はお客や。銭落としてくれる以上、ご依頼には沿うようするんが商売や」
「ほっとけ。めぼしいアイデアが浮かばへんから八つ当たりしとるだけや」
「おうおう。ないこともないでっせ、そのめぼしいアイデアとやら。端からみればアホらしいかもしれへんが、現実にこないなこと経験することはまずない、ちゅうシュチュエーションが」
「ほう。その案歌うてみい」
「へ。まずは食い物ですな。食欲いうたら人間の根源的な欲求や」
「でも、ありもんのご馳走やったらこのおっさん食い慣れとるで」
「せやから、そこにいろんな要素を加えて工夫しますねん。食欲プラス暴力プラス恐怖。うちら疑験屋ならどない無茶なシュチュエーションかて設定可能でっせ」
「食い物関係で怖いゆうたら……ひょっとしたら、あれか?」
「あれや」
初めての店に入るときに重要なのは、一種の直感だ。おれに関していうならば、この感は、めったに外れたことがない。店の構えを一瞥するだけで、どの程度の酒や料理をだすのか、大体はあたりがつく。
裏通りにあるその店も、気をつけてないとふと見過ごしてしまいそうな地味な印象があった。が、経験からいうならば、こういう店のほうが、主人が酒や料理になにがしかのこだわりを持つ凝り性で、常連客がついていたりするものだ。
──と思って一歩店にはいったとたん、そうした思惑がすべて、まったくの当て外れであったことを思い知らされた。
内装は、カウンターとテーブルが二、三卓ほどの、一見どこにでもあるような小綺麗で小じんまりとした居酒屋のように見える。
だが、十人前後いた客たちと、客たちの飲食していた「もの」が、ひどく場違いにみえた。
客たちは全員いかにもそれ風の中年以降のいい年をしたおっさんたちだったのが、やつらは各々チョコレート、キャンディ、ドーナツ、みつ豆、クレープ、アイスクリームなどを肴に、大きめのグラスに入ったカラフルな液体の上にクリームやチョコレート、それに色とりどりのフルーツが山盛りにデコレーションされたいわゆる「パフェ」呼ばれるものを、なにかにとり憑かれたかのように貪り食っている。
壁に貼られている品書きも、「ショートケーキ」、「ホットケーキ」、「餡蜜あります」などなど、ようするに全部、甘い物系で占められている。
──な、なんなんだ! この店は!
あまりにも意表をついたその光景に、おれが立ちすくんでいると、客たちと主人が、ぎらついた目をおれに向けはじめた。そうやら、この店にとっておれが「異分子」であることを、目ざとくかぎつけたらしい。
「ないじゃい! わりゃあ!」
「なめとんのか! ああ!」
きびすを返して逃げようとする間もなく、おれは客たちの手によって捕らえられ、ずるずると店のなかへ引きずり込まれていった。羽交い締めにされ、鼻をつままれて開いたおれの口の中に、生クリームが水飴が蜂蜜がガムシロップが容赦なく注ぎ込まれる。
──だ、誰か助けてれ! おれは辛党だ!
心中でそう叫びながらもおれは、むせ返りながらも、窒息しないためにはそれら「甘みの塊」を、嚥下し続けないわけにはいかなかった……。
「いうたら、古典的なネタやね」
「古典的いうより、ちょいとベタすぎるんとちゃうか?」
「いや、こんぐらいベタなほうがかえって意外性があんのも事実やし……」
「他では体験でけへんことは確かやな」
「せやせや。依頼された内容は、とりあえずクリアしとるで」
「しかしまあ、何が悲しゅうて金はらってこないな情けないシュミレーション疑似体験せにゃならんねん」
「疑験の内容より、わしゃ、お客のあとの怒りのほうが怖いで」
この時代、人工的に五感の感覚を再現する、いわゆるヴァーチャル・リアリティの技術は極度に発達し、市井の「疑験屋」たちはたえず要請される「新鮮な経験」というニーズに応え続けるため、日夜新しいソフトの開発に余念がなかった。
- この小説の著作権は岩館野良猫氏に帰属します -